あなたの知らないチェンマイ

ウィアン・クムカーム(チェンマイ建設前にあった王都の遺跡群)


行き方……市の南約4km。ピン川左岸を走るチェンマイ-ラムプーン通りを南に進み、空港から伸びるマヒドン通り(国道1141号線)との交差点を過ぎてさらに1kmほど行くと、右手に廃寺(ワット・クーカーウ)が見えてくる。廃寺の角(英語の看板あり)からスリーブンルアン通りを入って行った先の一帯が遺跡群になっている。



チェンマイの南にあるチェンマイ建設前にあった王都の遺跡群、ウィアンクムカームの写真(1) 一般的に言って、チェンマイの歴史はタイ暦1839年(西暦1296年)にマンラーイ王が当地に都を建設したところから始まるとされており、ガイドブックなどにもそう書かれていることが多いが、実はその2年前に彼が別の都を築いていたことを知る人は少ないのではないだろうか。それが、ウィアン・クムカームである。
 遺跡は東西に2km、南北に1km四方ほどのエリアに点在していて、歩いて回るのたいへんなので、バイクや自転車を使う方がいいとだろう。それぞれのスポットは、後述の通り1984年以降に行われた発掘作業によってたいへんきれいに整備されており、主要な遺跡には説明書き(タイ語のみ)も設置されているが、その割にはタイ人を含めて観光客に出会うことはほとんどない。そういった意味では、今や観光地として整備されすぎてしまったスコータイやアユタヤーよりも、いにしえの古都の繁栄ぶりに思いをはせるには向いているのではないだろうか。周囲の風景も、ラムヤイ畑や田んぼの間に民家が点在している静かな郊外といったカンジで、遺跡から遺跡に移動する道中も含めて楽しめると思う。
 遺跡群の中心地はワット・カーントムで、全体地図も設置されているので、まずはここを起点にして回るのがよい。市内から近いところで、その喧騒から逃れて北タイのノンビリした雰囲気を味わいたい、あるいはタイの遺跡や歴史的建造物に興味がある、という方には特にピッタリの場所だと思う。時間が許せば、ぜひチェンマイ観光のメニューに加えてほしい穴場的スポットのひとつだ。

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 ウィアン・クムカームへ行きました。旅行代理店の人にお願いして、往路だけ車でワット・タートゥイーカーンの近くまで連れて行ってもらい、後はこのサイトの地図を頼りに歩いてみました。この地図は、位置関係が正確で助かりました。
 ウィアン・クムカームは、日本の奈良・明日香村あたりの雰囲気があります。行ったのは、タートゥイーカーン、プーピア、タートゥカーウ、タートゥノーイ、チャーンカム、パンラウの6つでしたが、最近廃寺に関係したイベントがあったようで、提灯みたいなものが道筋に下がっていました。
 道には英語表記の矢印案内が要所にあって、迷うことはありませんでした。観光客はほとんど見あたらず、昔のチェンマイをしのびながら快適な気候の中で歩きました。ただ、観光地としては未開発のようで、軽食を食べられるような店とかがないのが残念でした。トイレは、ワット・チャーンカムが新しいお寺といっしょになっていて、そこにタイ式のトイレがありました。
 また、遺跡に向かうまでのチェンマイ-ラムプーン街道の巨木(木の種類は知りません)の並木道もすばらしいものです。これも、日光杉並木のように保存してほしいです。
【MASATOさんのレポート】

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チェンマイの南にあるチェンマイ建設前にあった王都の遺跡群、ウィアンクムカームの観光用馬車の写真 5年ぶりにウィアン・クムカーム遺跡に行ってきました。
 すっかり観光化されており、ポニーの曳くパラソル馬車とオープンエアのバスがありました。
 起点(ワット・チャーンカム)と終点(ワット・チェディリヤム)のどちらにも馬車とバスが待機しています。ワット・チェディリヤムの方が台数が多かったです。ワット・チャーンカムあるいはワット・チェディリヤムから出た馬車(またはバス)は、遺跡を5箇所廻って、元の場所に戻ります(車上から見るだけなら20分程度)。
 個人で遺跡めぐりをするのに最適だと思いました。
 御者が故事来歴をタイ語で語ってくれますが、全く分かりませんでした。
 バスも馬車も料金表など無く、運転手や御者との運賃交渉制のようでした。
 ワット・チャーンカムが昔よりかなり整備されています。
 昔は立派な本堂なんか無かったし、古いタイの建物群も無かったと思います。建物の中に古い家財道具が飾られていました(入場無料)。
 遺跡と言うか、遺構(レンガの基礎)は昔のままでした、ワット・チェディリヤム(鋭角四角錐)のみやや手入れされているように思いました。
【DMKさんのレポート】


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≪ウィアン・クムカームの歴史的背景≫

1.ウィアン・クムカーム建設前の状況

 ウィアン・クムカームが建設される前のこのエリアは、ハリプンチャイ王国(ラムプーン)の支配下にあった。
 その当時は、ワット・カーントムを中心とした村が存在し、ハリブンチャイ文化の影響を受けていたことを示す明白な証拠が残っている。この村は、おそらくタイ暦17世紀(西暦11世紀)までさかのぼる歴史を持っており、それはモン族の文字によって書かれた年代記、石碑や僧院跡、および古代モン様式の工芸品によって立証される。年代記には、“ワット・カーントム周辺に住む人々がいちじくの木をあがめていて、後にその近くに寺院を建設した”と記されている。この年代記の記述は、考古学的な証拠をもとになされたとみられ、2527年(西暦1984年)に行われたワット・カーントムの発掘調査でも、寺院の下の地層から古い僧院の跡が見つかっている。さらに、これらの発掘調査では、ハリプンチャイ様式の素焼きの奉納板も発見されている。しかし、発見されたこれらの奉納板は、ワット・カーントムそのものと関係があるのかどうかは明白になっていない。また、この発掘では、ハリプンチャイ様式の縄の文様が彫られた素焼き土器のポットなども見つかっている。
 こうしたハリプンチャイ芸術の遺物の発見は、ウィアン・クムカームの集落がハリプンチャイ時代から存在していたと仮定するに十分な証拠となるばかりでなく、素焼きの奉納板や縄の文様が彫られた素焼き土器のポットが発掘されたということによって、この集落が、同じような遺物が発見された他の集落と同時代に形成された、ということの証明にもなっている。例えば、前述の素焼きの奉納板は、ウィアン・マーノーやウィアン・ターカーンといった場所でも発見されている。こうした同じ文様が描かれた古代の工芸品の発見から、ハリプンチャイ王国の支配下にあったこれらの集落同士が、極めて親密な関係にあったと結論を下すことができるだろう。
 さらに、ワット・カーントムの発掘では、モン文字で書かれたモン族に関する記述のある遺物も見つかっている。これらの文字が、ラムプーンやウィアン・マーノーで見つかっている遺物に残されている文字に似ていることから、ワット・カーントムの歴史がタイ暦17世紀までさかのぼることができると考えられる。この仮説は、ワット・カーントムの集落がハリプンチャイ王国時代に建設されたウィアン・マーノー、ウィアン・ターカーン、ウィアン・トーと同程度の歴史を有するという理論づけをすることができるだろう。
チェンマイの南にあるチェンマイ建設前にあった王都の遺跡群、ウィアンクムカームの写真(2) ハリプンチャイ王国の支配権は、チェンマイ-ラムプーン盆地内部に徐々に広がっていった。北方は、現在のチェンマイ中心部、サーラピー、ハーンドン、メーリム、サンサーイ、サンカムペーン周辺にまで及び、最も遠いところでは、現在のチェンダーオ郡にまで達した。ハリプンチャイ王国の支配体制は、大きく2つのレベルに分けることができる。それは、ムアンと村であり、ムアンの下に置かれたパンナーというレベルはまだ導入されていなかった。これが導入されるのは、後のマンラーイ王の時代になってからである。国土の支配にパンナーを最初に導入したのは、シップソーンパンナー(*中国雲南省にある西双版納)のタイ・ルー族やラーンナー王国のタイ・ユアン族である。「チェンマイ年代記」(タムナーン・プンムアン・チェンマイ)によれば、ワット・カーントムの集落は大変小さく、ムアンのレベルではなく村のレベルであったらしい。マンラーイ王がウィアン・クムカームを建設した時代、ワット・カーントムは村からムアンのレベルに発展する途中であったと考えられる。この仮説は「ムーラーサーサナー年代記」(*14世紀に執筆された)の記述によって裏づけられている。この年代記によれば、ハリプンチャイ王国はその領土をチェンマイ-ラムプーン盆地全体に拡大し、結果として多くの村々をその支配下に治めていった。ワット・カーントムの村は、約20km離れたムアン・ラムプーンの支配下にあり、ムアン・ラムプーンはハリプンチャイ王国の支配下にあった。ワット・カーントムの住民達は、マンラーイ王がウィアン・クムカームを建設するまでこの場所に住み続けた。

2.マンラーイ王によるウィアン・クムカーム建設:ハリプンチャイ文化から脱却しての発展

 ウィアン・クムカームは、マンラーイ王によって、チェンマイが建設される2年前のタイ暦1837年(西暦1294年)に建設されたが、その目的はハリプンチャイ王国にとってかわる新しい国を建設することにあった。マンラーイ王は、その都となる場所として、後にワット・カーントムとなったエリアを選んだ。前述の通り、この場所がムアンのレベルになるまでに発展を続けていたこと、村がピン川のすぐ近くにあり都市を統治するための水を簡単に得られることなどがその理由であった。
 この時代、ピン川は重要な交易ルートであった。人々は、南に住む者も北に住む者も、ピン川を使って容易に移動することが可能だった。ウィアン・クムカームは肥沃は河川渓谷に位置していた。この時代においては、稲作に適しているかどうかというのが都市形成のための重要な条件になっていた。
 ウィアン・クムカームのルーツは、社会的・文化的環境のいずれにおいてもハリプンチャイのものであり、その影響を受けていることは間違いない。すでに述べた通り、マンラーイ王はこのエリアが河川渓谷の平原にあったが故に、ここにウィアン・クムカームの建設した。ウィアン・クムカーム建設に適した土地を選ぶにあたって、マンラーイ王はハリプンチャイ文化がベースになった思考方法を反映した決断を下している。タイ・ユアン族は、都を建設する時には山のふもとの小さな丘を選ぶ。ウィアン・クムカームのレイアウトは長方形をしているが、それに反してハリプンチャイ王国に支配される前のタイ・ユアン族は、彼らの都をそこの地形に適合するような形でシンプルに建設している。そして、その都市は、通常長方形ではない。
チェンマイの南にあるチェンマイ建設前にあった王都の遺跡群、ウィアンクムカームの写真(3) ラーンナーにおけるハリプンチャイ文化の影響は、ウィアン・クムカームのレイアウトだけでなく、文化的な面にも見ることができる。例えば、北タイのダムマー文字はハリプンチャイのモン文字が基となっているし、ラーンナー土着の仏教のサンガ(*出家者の教団)は、ハリプンチャイのそれに起源を有している。ラーンナー芸術の分野においては、さらにハリプンチャイの影響をはっきりと見ることができる。例えば、ラムプーンのワット・ククットの長方形のチェディ(*仏塔)のスタイルは、ワット・クーカムの青写真となっているし、ウィアン・クムカームにある8角形のチェディは、ハリプンチャイ時代に時を同じくして作られたワット・クーカム、ワット・プーピア、ワット・マイソーンでも見ることができる。こうしたことから推測すれば、タイ・ユアン文化は寛大にハリプンチャーイ文化と同化したと言えるし、同時にハリプンチャイ文化は地域の他の民族の文化と同化しながら、独自のラーンナー文化を形成していったともいうことができるだろう。
 ウィアン・クムカームは、その地理的優位性を生かして、ピン川沿いの他の都市との交易の中心地となり、ラーンナー王国の首都として全盛期を迎えた。加えて、ウィアン・クムカームには王族の住居とタラート(*市場)、数多くの寺院が建設された。一般的に言って、こうしたできごとは都市が発展するための重要な条件である。マンラーイ王は、ウィアン・クムカームの住民達の日常生活をしっかりと観察しながら、その支配を確固たるものにしていった。
 しかしながら、ウィアン・クムカームが首都としての重要性を維持していたのは、ほんのわずかの期間であった。マンラーイ王は、チェンマイのロケーションの方が首都としての必要条件をより満たしていると考え、遷都を行った。地質学者の調査によれば、ウィアン・クムカームに起きた大洪水の惨事と遷都とは直接関係はないという。この大洪水は、遷都のずっと後のタイ暦2101年~2317年(西暦1558年~1774年)のビルマ支配下の時代に発生している。

3.マンラーイ王朝時代のウィアン・クムカーム:その重要性

 新しい首都としてチェンマイが建設された以降も、ウィアン・クムカームは消滅したわけではなく、存在し続けた。打ち棄てられた数多くの僧院跡などから、その後もウィアン・クムカームが発展を続けたであろうという推測が成立する。というのも、こうした僧院は、その後の時代において修復や増築が行われた形跡があるからだ。ウィアン・クムカームそれ自体は、マンラーイ王の統治時代の終わりまで存在し続けたのであろう。
 ウィアン・クムカームはチェンマイとの距離が非常に近かったため、遷都後も王が直接支配し、衛星都市としての地位を保った。王とその一族は、休暇でウィアン・クムカームをしばしば訪れ、街はチェンマイとともに発展していった。同時に、ウィアン・クムカームは、チェンマイを攻撃しようと試みる外敵から身を守るための前哨地点としての役割を担うようになっていった。ウィアン・クムカームを基地として利用することによって、敵の攻撃からチェンマイを防御することができたため、王はヴィアーン・クムカームをしっかりとその支配下に置き続けた。

4.ウィアン・クムカームの崩壊:ビルマ支配時代の大洪水

 自然災害である大洪水は、ウィアン・クムカームを崩壊へと導いた。この大洪水は、とてつもないダメージをウィアン・クムカームに与えた。タイ国芸術局の発掘によって、この洪水は僧院を沈殿物で埋め尽くしたことがわかっている。
 僧院の本来の位置は、現在の地表面の1.5~1.8m下にあった。言いかえれば、ウィアン・クムカームは、ピン川の水面よりもかなり低い位置に建設されていたと考えられる。そのため、洪水によって受けた被害が大きくなり、ウィアン・クムカームは廃墟になってしまった。しかも、ビルマの支配によって王国の政治的パワーは衰えてしまっていたため、それを修復することがもきなかった。興味深いことに、「チェンマイ年代記」は、ウィアン・クムカームを襲ったこの大洪水について、まったく言及していない。ウィアン・クムカームを荒廃させた大洪水は、ワット・タートゥイーカーンとワット・プーピアの中間である遺跡群の北西方向から流れ込んだ。そのため、両寺院の一帯は、他のエリアよりもより多くの沈殿物が堆積している。一方、東側の一帯は水が大量に流れ出たため、ほとんど何も残っておらず、発掘によってもウィアン・クムカームの痕跡を発見することができていない。
 この大洪水によって、ピン川の河床は場所が変わってしまった。もともと、ピン川はウィアン・クムカームの北および東側を流れていたのであるが、この洪水によって現在のように西側を流れるようになったのである。この洪水は、ピン川西岸に位置していたチェンマイ、ウィアン・クムカーム、ラムプーンの3都市を襲い、現在のようにチェンマイからウィアン・クムカームに行くのに川を渡らずに済むようにさせたのだ。現在のピン川は、ウィアン・クムカームとラムプーンの街のすぐ近くを通ってはいない。

5.今日のウィアン・クムカーム

チェンマイの南にあるチェンマイ建設前にあった王都の遺跡群、ウィアンクムカームの写真(4) ピン川がウィアン・クムカームのそばを通らなくなり、現在のような流れに河床を変えたのは、タイ暦2317年(西暦1774年)以降であることは明白に証明されている。街の発展と成長が、通商ルートによって決定されることからもわかる通り、ウィアン・クムカームは徐々にその重要性を失っていった。ウィアン・クムカームにかわって、ター・ワンターンが水深のある船着場として大きくなっていった。チェンマイとクルンテープ(バンコク)の間を行き来する船は、ター・ワンターンに錨を降ろすようになった。船着場は、人と荷物の双方にとっての乗り継ぎスポットであった。そのため、ター・ワンターンは、相対的に大きな街に発展していった。
 ター・ワンターンは発展を続け、その範囲をピン・ハーンと呼ばれていたかつての河床があったエリアにまで広げていった。街は、ター・ワンターンの内部にあったワット・チェディリヤムからワット・スリーンルアン、ウィアン・クムカームへの道路を通りすぎて、最終的にはチェンマイ-ラムプーン道路まで達した。このピン・ハーンに沿った拡張は、水深が浅くなってしまったため使われなくなったピン川のルートにかわって使われるようになったチェンマイとラムプーンを結ぶ陸上ルートを使用する必要性、という結果をもたらした。
 ウィアン・クムカームについて言えば、再び発展を続けたが、それはとてもわずかなものに終わった。ウィアン・クムカームは、発展と成長の中心になることは2度となく、ウィアン・クムカームを通る通商ルートはその重要性を失った。ウィアン・クムカームへの再移民も行われたが、それはワット・チャーンカムという新しい名前をつけられた村の中心であるワット・カーントームの再建設の一環として進められた。
 ウィアン・クムカームの住民はコン・ムアン(チェンマイ人)である。彼らは、小さな集落に農民として居住した。数多くあった廃墟となった僧院は、そのまま無視され続けた。タイ暦2527年(西暦1984年)に、ラーンナータイのかつての歴史におけるウィアン・クムカームの重要性を祝う催しが開催された。このとき同時に行われたワット・カーントームの発掘は、歴史家や一般庶民の興味を刺激した。タイ国芸術局第4部は、それからタイ暦2532年(西暦1989年)にかけてウィアン・クムカーム周辺の発掘と修復活動を行って、現在のような姿に至っている。

≪出典≫サラサワディー・オーンサクン著「ウィアン・クムカーム ~ガーンスクサープラワティサーソットチュムチョンボーラーンラーンナー~」
≪注≫カッコ内に*のあるものは引用者による注


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≪各遺跡の紹介≫

■ワット・タートゥイーカーン



 遺跡群の西寄りに位置し、大洪水以前のピン川の流れに正対するように北向きに建てられた寺院の跡。現在は、狭い道路沿いにあり、道を通っていると突然現れるようなカンジの遺跡になっている。遺跡には、それぞれ独立した基壇の上に建てられたヴィハーン(本尊である仏像を安置した堂)とチェディ(仏塔)があるほか、お参り(右肩を向けて時計回りに回る)のための広場も残されている。ヴィハーン跡には、高さ1メートルほどのレンガ造りの柱の跡もある。チェディは先端が欠けてしまっているが、正方形の基壇に8角形のターンブアルークケーオ(チェディの最下部)といったラーンナー様式の特徴をよくとどめている。タイ暦21世紀に建立されたと考えられている。発掘前、この遺跡は2mあまりの厚い砂に覆われていたが、タイ国芸術局によってタイ暦2539年(西暦1996年)に発掘・修復作業が行われた。

■ワット・タートゥカーウ



チェンマイの南にある王都の遺跡群、ウィアンクムカームのワットタートゥカーウの写真 ワット・タートゥイーカーンのさらに西側、遺跡群の最西部に位置し、東を向いて建てられた寺院の遺跡。チェディ(仏塔)もターンブアルークケーオ(チェディの最下部)までがわずかに残っているだけだが、基壇だけはどの建物も原形をとどめており、チェディの前にはウボーソット(僧侶の得度式が行われる建物)があり、その左(南)側にヴィハーン(本堂)があったことがよくわかる。ヴィハーンには、近年になって安置されたと思われる仏像が安置されているが、恐らく寺院が現存した時代には、石灰を型に入れて作った仏像があったものと推測される。残っている部分から、タイ暦21世紀に建立されたと考えられる。上記のワット・タートゥイーカーンと同様、タイ国芸術局によって、タイ暦2539年(西暦1996年)に発掘・修復が行われた。写真の通り、遺跡自体はよく整備されているが、周囲を森に囲まれておりどことなくさびしい印象を受ける。

■ワット・プーピア



 ウィアン・クムカームの内部、西側のお堀と城壁に接するようにして東向きに建てられた寺院の遺跡。チェディ(仏塔)、ヴィハーン(本堂)、ウボーソット(僧侶の得度式が行われる建物)から構成されており、どれもが遺跡群の中でも比較的原形をとどめていると言え、特にヴィハーン正面の階段手前から見渡すチェディまでの風景は印象的だ。残存している遺跡に記された文様などから、建立後に改修が加えられたということがわかるが、チェディにはラーンナータイ様式の特徴が多く残っている。タイ暦21世紀に建てられたと推測され、タイ国芸術局によって2529年(西暦1986年)に発掘・修復が行われた。他の遺跡よりも整備の状態はよい。

■ワット・フアノーンの遺跡群



チェンマイの南にある王都の遺跡群、ウィアンクムカームのワットフアノーンの写真 ウィアン・クムカームの北東寄り、かつてのピン川の流れに面して建てられた遺跡群。ここは、他の遺跡と異なりかなり広大な敷地に遺構が散らばっており、道路をはさんで大きく4つのエリアに分けることができよう。ひとつ目は、メインのチェディ(仏塔)があるエリアで、このチェディは北向き(川に向いて)に建てられており、基壇の部分には象の装飾が施されている。ヴィハーン(本堂)の跡も残っているが規模は小さくチェディの付属品のように見える。ふたつ目は、ウボソット(僧侶の得度式が行われる建物)があるエリアで、側面に3つのエントランスを持ったモンドップ(尖塔のある方形建築物)の遺跡がすぐ隣にくっついて残っている。このエリアの建造物の残存している部分を見ると、ラーンナー様式とスコータイ様式がミックスされているように思われる。みっつ目のエリアはウィアン・クムカームの城壁と井戸、それにメコン川をモチーフにした文様がつけられたレンガ作りのアーチから構成されている。よっつ目は、チェディ、ヴィハーン、ウボソットのグループで、四角く形どられた壁の中に収められたような状態で遺跡が残っているほか、メコン川と象をモチーフにした文様が周囲に施されたアーチの遺跡もある。これらの遺跡群はタイ暦22世紀に建造されたと考えられており、タイ国芸術局によって2531~2532年(西暦1988年~1989年)に発掘・修復された。周囲は草むらで、どことなくノンビリとした雰囲気の遺跡だ。

■ワット・タートゥノーイ



 ワット・チャーンカムの西側、全体の位置からするとウィアン・クムカームの南西寄りに位置するこじんまりとした遺跡。チェディ(仏塔)、および西向きに建てられたヴィハーン(本堂)から成り立っているが、どちらも基壇部分を残すのみで、その表面も雑草に覆われている。建物の構造的特徴およびわずかに残された装飾などの芸術面の特徴から、タイ暦19世紀から20世紀の間に建立されたと推測される。タイ国芸術局によって、タイ暦2528年(西暦1985年)に発掘・修復が行われた。

■ワット・クープーチャン

チェンマイの南にある王都の遺跡群、ウィアンクムカームのワットクープーチャンの写真 ウィアン・クムカームの南部にわずかに残存している城壁に沿って続いている小道の脇にあり、ウィアン・クムカーム全体からすると南東部に位置している。近くに遺跡は残っておらず、ポツンと取り残されたようなロケーションになっており、そのためかこれまで紹介してきた遺跡と比較して整備のレベルはやや低く、解説などもなく名前を記した小さな看板が立っているのみ。小さな階段の入口がついたヴィハーン(本堂)とナークラダーン(中央部の一番太くなっている部分)付近まで残存しているチェディが草むらの中にひっそりと残っている。


■ワット・クムカームラーン

チェンマイの南にある王都の遺跡群、ウィアンクムカームのワットクムカームラーンの写真 ウィアン・クムカームのほぼ中央部やや北寄りに位置する遺跡。写真で見てもわかる通り、うっそうとした草むらにほんのわずかに建物の基壇が残っているだけだ。タイ国芸術局がワット・カーントムに設置した遺跡の全体図には「ワット」とは書かれていないので何か別の建築物だと思われるが、残存している遺構が少ないため、残念ながら何の遺跡なのかがよくわからない。道路をはさんだ向かい側、少し奥まったところにもにも遺跡が残っているが、道路からの道がなく草が生い茂っているため、近づくことはできない。


■ワット・パヤメンラーイ&ワット・プラチャオオンカム



  ウィアン・クムカームの北東側、大洪水以前のピン川の流れに接するように、道路をはさんで並んで建立された寺院。ワット・パヤメンラーイには、チェディ(仏塔)とヴィハーン(本堂)があるが、どちらも基壇がわずかに残っているだけである。一方、ワット・プラチャオオンカムにはヴィハーンしか残存しておらず、こちらも基壇の部分しかないが、高さが1mほどある立派なもので、他の遺跡のヴィハーンと比較しても存在感がある。両遺跡ともとりわけ特徴があるわけではなく、周囲も草むらになっていて人の気配もほとんど感じられないような静かなロケーションになっているので、時間のない人は無理に見る必要はないだろう。

■ワット・カーントーム&ワット・チャーンカム



チェンマイの南にある王都の遺跡群、ウィアンクムカームのワットカーントム&ワットチャーンカムの写真 ウィアン・クムカームのほぼ中央部に位置していることからもわかる通り、王都の中心となっていた寺院の遺跡。ウィアン・クムカームの全体地図も設置されているので、遺跡巡りをするならば、まずここで全貌をつかんでおくのがよいかもしれない。ワット・カーントムの遺跡は、柱の一部までが残っているヴィハーンと基壇だけが残っているチェディがあるが、写真の通りたいへんきれいに整備されている。しかし、ここでの最大の見どころは、ラーンナータイ最初の王でありこのワット・カーントムも含めたウィアン・クムカームを作ったマンラーイ王が建てたと言われているサーラーピー(聖霊の家)だ。このサーラーピーは、現代においてもコン・ムアン(チェンマイ人)にとって聖なる場所として尊敬を集めており、お供えを献じてお参りをする人が大勢いるという。
 ワット・チャーンカムは、“歴史的背景”で述べている通り、ウィアン・クムカーム崩壊後にこの場所に建てられた現代の寺院で、白色のチェディが印象的だ。







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