あなたの知らないチェンマイ

ウィアン・ターガーン(12世紀に建設された都市の遺跡)


行き方……チェンマイから南におよそ30kmのサンパトーン郡にある。国道108号線を南に進み、サンパトーンの街を過ぎて10キロほど行くと、トゥンシアオの街に着く。街の中心部にある信号を左折(信号手前に英語の看板あり)し、さらに2キロほど進むと大きなチェディ(ワット・トンゴーク)が見えてくる。そのまままっすぐ1キロほど直進した右手が遺跡の中心部で、インフォメーションセンターと資料館がある。



チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンの写真(1) チェンマイのはるか南にある、ハリプンチャイ王国(ラムプーン)の黄金時代に栄えた街の遺跡。下に紹介しているウィアン・クムカームよりも全体としての規模は小さいが、歴史ははるかにこちらの方が古い。
 遺跡は、下記の説明の通り大きく6つのグループに分けられており、多くの遺構にはタイ語と英語の説明看板が設置されているほか、チェディなどが密集した中心部には資料館とインフォメーションセンター(遺跡めぐりはここから始めるのがよい)が作られており、出土した遺物が展示されていたり、遺跡の来歴などについて詳細な説明がなされていて、ある程度観光地としての機能を有しているが、遺跡を見て回っていても、外国人はもちろんタイ人の旅行者に会うこともまったくなく、自分は逆に村人から“こんなところに外人が来た”というカンジで、もの珍しそうに見つめられてしまった。日本で市販されているガイドブックでここを紹介しているものはおそらく皆無なので、そういった意味ではウィアン・クムカームと同様に、チェンマイ観光の穴場的スポットのひとつと言うことができるかもしれない。
 一応、観光地としての体裁は整えてられてはいるものの、遺跡の保存状態はウィアン・クムカーム同様にそれほどよいとは言えず、ほとんどが野ざらしで遺構の上などにも乗って歩くことができるが、そのようなことをする場合は遺跡を壊したりすることのないように、細心の注意を払いたいものである。
 遺跡は、3方をお堀に囲まれた約1キロ四方のエリアに点在しており(その外にもいくつか残っている)、すべてを歩いて回ることは不可能。中心部を貫くメインストリート沿いにある遺跡を除けば、いかにも北タイの田舎というカンジの村の中の細い道を進んで向かうことになるが、自動車だと進むことが困難なところがあったり駐車スペースが見つけにくい遺跡もあり、あまり都合がいい交通手段とは言えない。トゥンシアオの街までは、国道108号線をチョムトーンやホートに向かうソンテオやバスが多数通っているが、そこから遺跡までの交通の便は決していいとは言えない(たぶん、バイクタクシーなどを利用することになるだろう)ので、チェンマイからバイクを自分で運転していくのが一番いいと思う。ラムプーンの南西に位置しているので、ふたつを組み合わせて1日観光とするのもアイディアであろう。


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≪ウィアン・ターガーンの背景≫

 ポンサヴァダーン、ヨーノック年代記など歴史書の記録によれば、ウィアン・ターガーンの歴史に関連するチェンマイの原初的な宗教と土着の神話は、仏教の故事として残されている。それらの歴史書の記録では、仏陀がウィアン・ターガーンを訪れたとされているが、考古学的に見ると、ウィアン・ターガーンの街は12世紀のアティタヤラージャ王の治世に建設されたと考えられる。この時代、ハリプンチャイ王国の宗教、芸術および文化は隆盛を極めていた。ウィアン・ターガーンの都市は、ラムプーンの町を守ると同時に食料を供給する役目を担い、その重要性はラーンナー王朝のマンラーイ王の時代(在位1261年~1311年)まで続いた。
 チェンマイの街が建設される以前、一帯はウィアン・プンナターガーンとして土着の神話には記録されている。マンラーイ王は、ウィアン・ブンナターガーンを重要な街として位置づけ、そこにボーの木(インド菩提樹)を植えた。チェンマイ土着の神話は、4人のプラー・マーハー・テラーが4本のボーの木をランカー(現在のスリランカ)から持ち帰ったと記している。後にマンラーイ王がそれらの木を受け取り、1本はファーンの街のトゥン・ヤンで、もう1本をチェンマイのルオ・ナーンで、さらにもう1本をウィアン・プンナターガーンで育てた。そして、残りの1本は、彼の母親がウィアン・クムカームにあるワット・カーントームに植えて育てたとされている。
 ウィアン・ターガーンは、後にチェンマイのティローカラート王(在位1441~1487年)の支配下に入った。この時代、ティローカラージャ王はギオの街を攻撃し、捕虜をウィアン・プンナーターガーンに住まわせた。北タイ地方の方言で、“プンナー”は1,000スクエアの広さを持つ水田地区という意味である。
 後の1558年、ホンサワディーのブレーンノーン王がチェンマイを支配した際、ウィアン・ターガーンもビルマ人に占領された。その後、チェンマイとウィアン・ターガーンは、1796年にカーヴィーラ王がビルマを追い出し、この地域にタイ・ユアン族を移住させるまで、1775年から1798年の間は荒廃した。タイ・ヨン族は、ウィアン・ターガーン一帯に今日まで住み続けている。
 しかしながら、ウィアン・ターガーンに住む人々は、ターガーンという言葉は“ターカー”という単語から来ている、と言う。村の言い伝えによれば、ある時白いカラスが村に飛んで来たが、村に不幸をもたらすとしてすべての村人によって追い出された。その出来事から、人々は自分たちの村をターカー(北タイ地方の言葉でターカーはカラスのことを指す)と呼ぶようになったらしい。さらにその後、1907年には、ワット・ターガーンの僧院長が、村の名前をバーン・ターカーからバーン・ターガーンに変更した。
 ウィアン・ターガーンについて書かれた文献は、ハリプンチャイ王朝からラーンナー王朝の時代まで、人々がこのエリアに住み続けたと主張している。北タイ地方には、考古学的な遺跡はそれほど多く残っていないが、このエリアでは仏教の碑文や土製の仏像、ブッダとボディーサッタの銅像などのハリプンチャイ文化の下で作られた遺物がいくつも発掘されており、さらに多くのハリプンチャイとラーンナーの文化の下で作られた遺物がウィアン・ターガーンの街の内外に残されていると考えられる。

≪ウィアン・ターガーンとハリプンチャイ王国との関係≫

 ハリプンチャイ王国は、チェンマイおよびラムプーン県のピン川上流の平原、ラムパーン県のワン川沿いの平原とカオカー郡にある数多くの街から成り立っていた。そして、ラムプーン(ハリプンチャイ)が王国の中心であった。チャーマテーヴィー(ハリプンチャイ王国の最初の支配者と言われるモン人の女王(*注1))の神話には、ワーステープという隠者が767年から768年にハリプンチャイを建設したと書かれている。ハリプンチャイを建設した後、彼は統治者としてラウォー(現在のロッブリー)国の王女であったチャーマテーヴィーを迎えた。ハリプンチャイの街が平定した後、支配者はその領土を拡大させ、その影響はワン川平原の広い範囲に及んだ。ケーラーン(現在のラムパーン)の街は、この時代に確立された。ハリプンチャイ時代のピン川平原に見られる古代都市は、ノーントーン地区(サンパトーンの東)のウィアン・マーノー、チェンマイ県のハーンドーン、ソーンケーオ村のウィアン・トア、チェンマイ県のチョムトーン、クラーン地区のウィアン・ターガーン、チェンマイ県のサンパトーンである。
チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンの写真(2) 北タイに伝わる神話によれば、仏陀がハリプンチャイとウィアン・ターガーンを訪れ、ハリプンチャイは自分の遺品が安置された偉大な街になるだろうと予言した、とされている。それに加え、神話にはアーティトアヤラージャ王がワット・プラタート・ハリプンチャイの中に仏陀の遺品を納めたストゥーパ(仏塔)を建設したが、その工事中に白いカラスが彼の頭上を飛び回り、彼が兵士にそのカラスを捕まえるよう命令したが、ウィアン・ターガーンヘ飛び去っていった、と記されている。
 ハリプンチャイの街とウィアン・ターガーンは、お互いに関係しあっていたということができる。アーティットアヤラージャ王は、1043年に即位した。したがって、ウィアン・ターガーンはハリプンチャイの街が建設されたのと同時代かそれ以前にできたのかもしれない。

≪ウィアン・ターガーンとチェンマイとの関係≫

 ウィアン・ターガーンとハリプンチャイの繁栄と没落は、同時代にあたる。マンラーイ王がハリプンチャイを征服した後、ウィアン・ターガーンはチェンマイを防衛する街となった。ティローカラート王(在位1441~1487年)の治世、彼はギオの街を攻撃し、ウィアン・プンナタカーンに住まわせるために、多くのギオの住民を捕虜として連れて来た。
 ウィアン・ターガーンはランナー王国の街として、そしてチェンマイのプンナー(1,000スクエアの広さを持つ水田地区という意味)としての重要性を長い間保ち続けた。1558年、ホンサヴァディー(ビルマの都市)のブレンノーン王がチェンマイに軍隊を送り、その時以来ウィアン・ターガーンはビルマの支配下に置かれた。
 1728年、ラーンサーン王国(14世紀、ラオスのルアンプラバーンを首都として成立した王朝)のオーンノック王が大きな力を持ち、ビルマと戦った。その結果、ラーンナー王国の多くの街は1775年から1798年の間荒廃した。その後、1796年にカーヴィラ王がバンコクからの軍隊と協力してチェンマイを襲撃し、ラムプーンとウィアン・ターガーンを復活させた。これらの街には、タイヨン族が居住した。


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≪各遺跡の紹介≫

 ウィアン・ターガーンの遺跡は、ロケーションによって、6つの遺跡群とそれらからやや離れたところにある独立した寺院遺跡、およびお堀と城壁によって構成されている。

[第1遺跡群]



チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンの第1遺跡群の写真 このグループは、ウィアン・ターガーンの中心に位置しており、22,400平方メールの広大な敷地に遺跡が点在しているほか、資料館もここに建てられている。ウィアン・クムカームにはこのような広くて開けたスペースに遺跡が数多く固まったところがなく、スコータイほどではないものの、壮観な印象を受ける。
 寺院全体は東側にメインの門が作られた壁に囲われており、チェディ(仏塔)、ヴィハーン(本堂)、ウボソット(布薩堂)、そしてその門と壁の基礎部分が残っている。チェディはヴィハーンの後方に位置しているが、基壇の8角形のスタイルはラムプーンにあるワット・チャマテヴィー(=ハリプンチャイ様式)の影響を、丸型の鐘はラーンナー様式の影響を受けていることから、14世紀から17世紀の両王国の時代に建立されたと考えられる。
 このグループのエリアの遺跡からは、金・銀・銅製の仏像と土製のブッダに関する碑文が発見されている。しかし、この地域での最も重要な遺物は、ユアン王朝時代のブルー・アンド・ホワイト(青磁)の壺だ。
 この遺跡は、タイ国芸術局によって登録され、境界が決定された。この登録は、1979年9月18日に発行された政府官報の第96巻、160章の中で布告されており、1988年にタイ国芸術局第4部によって発掘・修復が行われた。

[第2遺跡群]

 遺跡中心部から見て北西側に位置する、ワット・プラ・ウボソットとワット・パーパオを中心としたグループ。このエリアの寺院は、14世紀から17世紀のラーンナー王国の時代に建設されたと考えられ、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われた。

■ワット・ウボソット



チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンのワットウボソットの写真 お堀の内側にある遺跡。この遺跡で現存しているモニュメントは、ラーンナー様式の四角形の基壇を持つチェディと、その前に建てられたヴィハーン、それに屋根のない楼門である。この寺院のヴィハーンは東に面しており、遺構は境界に作られた壁によって囲まれている。楼門は遺跡の東側に残されている。チェディはヴィハーンの裏側に位置し、基壇から鐘形の頂上部までほぼすべてが残っている。
 寺院がこのような名前で呼ばれるのは、寺院の中に打ち捨てられたウボソット(布薩堂)があったからであるが、後にそのウボソットは住民によって取り壊され、新しいものに建て替えられた(おそらく、チェディーの脇に建っている新しいウボソットがそれであろう)。
 16世紀から17世紀のラーンナー王朝時代に建てられたと考えられており、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われた。

■ワット・パーパオ



 お堀と城壁に接するようにしてその外側に建てられた寺院。写真の通り荒地の中に四角形の大きな基壇とチェディの下部だけが残されている。この遺構を見る限りでは、それほど大きな寺院ではなかったと思われる。


[第3遺跡群]



 第1遺跡群の南に隣接した、ワット・トーンポーを中心としたグループである。「ウィアン・ターガーンの背景」で言及している、ランカー(スリランカ)から来たボー(インド菩提樹)の木は、マンラーイ王によってこの寺院の敷地内に植えられたと考えられている。このグループで残っている遺構は、チェディ、ヴィハーン、ウボソットと遺骨を納めるための四角い建物である。チェディの南側にあるヴィハーンは、東にあるメインの門の方を向いており、すべての遺構は、この門から伸びる境界線に作られた壁によって囲まれている。これらの遺構は、14世紀から17世紀の間のラーンナー王朝の時代に建設されたと考えられ、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われている。

[第4遺跡群]

 遺跡の中心部からやや東側に位置している。ワット・フアカオーンが、このグループの中心と位置づけられているが、それ以外に遺跡はなく、グループと呼ぶには少々無理があるような気がする。
 ワット・フアカオーンには、南を向いたヴィハーンの後方にチェディが残っており、境界に作られた壁によって囲まれている。この寺院は16世紀から17世紀のラーンナー王朝の時代に造られたと考えれており、1988年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。

[第5遺跡群]

 ワット・プラチャオカムを中心とする、中心部から北東方面に位置する遺跡群。ここにたどり着くには、村落内の少し複雑に入り組んだ道を進んでいかなければならない。遺跡群そのものは、村はずれの住居がとぎれた先にポツンと取り残されたようにたたずんでいる。

■ワット・プラチャオカム

チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンのワットプラチャオカムの写真 荒地に大きなチェディの基壇部分のみが残っている遺跡。説明書きを見ると、チェディの奥にヴィハーンも残っているようなのだが、自分が行った時には草が生い茂っており、近づくことはできなかった。
 寺院が「プラチャオカム」と名づけられたのは、このエリアから焼けた銅の仏像が見つかったからで、「カム」は北タイの方言で“焼けた”という意味である。
 寺院のモニュメントは東を向いており、チェディとヴィハーンは同じ基壇の上に建てられているという。寺院は14世紀から16世紀のラーンナー王朝時代に建立されたと考えれ、1989年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。

[第6遺跡群]

 お堀の外側、遺跡中心部からほぼ真西に位置しており、トゥンシアオの街からウィアン・ターガーンに向かって進んで来ると、一番最初に左手に見えてくるのがこの遺跡群だ。
 ワット・トンゴークがこのグループの中心を形成している。

■ワット・トンゴーク



 チェディの上部は典型的なラーンナー様式である釣鐘型をしているが、およそ50年前に基壇がビルマ様式に作り変えられて現在のような大きさになった。しかしながら、このチェディそのものの建設はまだ完了していない、とされている。ワット・トンゴークのこのチェディは、正面が東を向いたヴィハーンの裏側に位置している。チェディの北には、まだ発掘されていないヴィハーンの小さな丘と小規模な建物の遺跡があるらしいのだが、自分が訪れた時にはこのあたりは草木が生い茂り、存在を確認することすらできなかった。
 寺院は、ラーンナー王朝時代の15世紀から17世紀の間に建立されたと考えられており、1989年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。


[そのほかの遺跡&遺構]

■ワット・クーマイデーン



 ワット・トンゴークの前から南東に伸びる通りをどこまでも進んだ、ほかの遺跡からはかなり離れたところ(説明書きにはウィアン・ターガーンの中心部から300m南と記されているが、実際にはもっと離れていると思われる)にポツンと残された寺院の跡。全体の半分ほどの高さまで残ったチェディとヴィハーンの跡が残り、チェディの前には崩れかけた3体の仏像が無造作に置かれている。この寺院は、地元の人々からクーマイデーンと呼ばれているが、それはここにタイでは“マイデーン”として知られる赤い(デーン)木(マイ)があったからである。しかしながら、寺院の歴史に関する情報はまったく記録が残っていない。
 遺跡には、チェディ、ヴィハーン、境界を形成している壁が同じ基壇の上に乗った状態で残されている。チェディとヴィハーンは2度建設されている(前者は、他の遺跡のチェディとは色が異なっており、もしかしたらかなり新しい時代に作られたものかもしれない)。崩壊しているチェディの内部には、花托模様の3つの輪がつけられた高い四角形の2重にさねはぎ継ぎされたもうひとつの小さなチェディがあるが、これは遺物を収めるためのものだと推測される。このもうひとつのチェディは16世紀から17世紀の間に建てられたと考えられている。チェディの基壇から伸びたヴィハーンの基壇の上には、現在見ることのできる新しい基壇が造られている。ヴィハーンの南側にある四角形の基壇は、かつてパビリオンか僧侶の住居として使われた建物の跡である。この寺院そのものは、14世紀から17世紀の間に建立されたと考えられる。

■ワット・ノーイ



チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンのワットノーイの写真 第1遺跡群と第3遺跡群の南、ウィアン・ターガーンを囲む城壁と運河の近くに位置する遺跡。ほかの寺院に比べると規模が小さいことから、タイ語で“小さい”という意味を表わすノーイという名前がこの寺院につけられた。この寺院の歴史に関する情報は、上記ワット・クーマイデーンと同様まったく記録が残っていない。
 東向きに建てられたメインのヴィハーンの裏手にチェディーの遺跡が残り、さらに北側にはもうひとつの小さなヴィハーンの跡がある。この2つのヴィハーンは、ともに3回建設されている。最初は大きなレンガで造られ、その後の2回は規模の拡張を目的とした建て替え工事である。チェディはずっと昔に崩壊し、宝物蔵の遺跡と合わせて四角形の基壇のみが残っている。この寺院は14世紀はじめから17世紀の間に建てられたと考えられている。


■ワット・パーパイルアック



チェンマイの南にある12世紀に建設された都市の遺跡群、ウィアンターガンのワットパーパイルアックの写真 街の南西、城壁とお堀に接するようにしてその外側にある寺院の遺跡群で、第1遺跡群と第3遺跡群に残された固まった寺院跡を除けば、ウィアン・ターガーンの中で最も大きな遺構である。タイ語で“パー”は森を、“パイルアック”はシャム竹(日本の竹と異なり中が詰まっている(*注2))を意味しており、この寺院群の名前の由来は、このエリア一帯にたくさんの竹が生えていたことによる。しかしながら、この寺院群の歴史に関する情報はまったく記録が残っていない。
 寺院群は、東に向けて造られた壁に周辺を囲まれている。この壁は幅56.35m、長さ81.80mの大きさを持つ。壁自体は平均して厚さ70cm、高さ50~70cmである。発見された遺物から、いくつかの寺院は12世紀から14世紀にかけて建立されたと考えられるが、入口近くにある遺跡群の大部分については14世紀から17世紀に作られたと推測される。

 この寺院には、大きく9つの遺構が残されている。

*NO.1……遺跡群の南側に位置しており、東を向いて建てられたヴィハーンとその裏にチェディが残っている。この2つは、もともとは別の基壇の上に建てられたが、後の拡張工事でひとつにつなげられた。そのため、現在は同じ基壇の上に乗っているように見える。ヴィハーンはラーンナー様式の開放的なホールになっており、チェディは蓮をかたどった四角い基壇の上に建てられ、大昔に倒壊している。

*NO.2……遺跡群のほぼ中央に位置している。ここには、ラーンナー様式のヴィハーンの基壇がふたつと、何だったのかまだ判明していない小さな建物の基壇が残されている。ふたつのヴィハーンは大きなレンガと漆喰で造られ、そのうちのひとつは南向きになっている。大きなヴィハーンの裏手に位置しているもうひとつの小さな付随的な建物は、大きなレンガだけで建てられている。

*NO.3……遺跡群の東側に位置している。南を向いたレンガの壁でできたヴィハーンが残されている。ヴィハーン内部にはさらにレンガの壁が造られており、それが部屋をふたつに分けている。

*NO.4……NO.1の遺跡とNO.2の遺跡の間にある。東を向いている、はっきりと間仕切りをしない間取りをした小さな四角形の建物の跡が残っている。

*NO.5……遺跡群の周囲を囲む壁の北東角に残された遺跡。中央にふたつの木の梁が平行に残った円形をフィーチャーした楕円形の基礎を持つ遺構が見つかっている。ここからは、大量の灰と炭が見つかり、また繰り返しここで何かを燃やした跡が残っていることから、遺体の火葬かいけにえを燃やすために使われていたのではないかと推測されている。

*NO.6……遺跡群の周囲を取り囲む壁の南に残されている小さな四角形の遺構を持つ遺跡である。この遺構はヴィハーンとして使われていたと考えられる。

*NO.7……遺跡群の周囲の壁の北側に位置している。この遺構はトイレとして造られたと考えられており、遺構に残された3つの壁は、現在も周囲の壁とつながっている。

*NO.8……遺跡群を囲む壁の東側に残された遺跡。発見されたさまざまな遺物は、ここが囲炉裏かキッチン、火葬場、あるいはハーブサウナとしてさえ使われていたことを物語っている。

*NO.9……NO.3の遺跡の北側に位置している。ここにはレンガと漆喰で造られた壁を持つ小さな四角形の建物が現存している。これは、パビリオンのひとつとして建造されたと考えられている。


■お堀と城壁



 お堀と城壁は、南北に約700m、東西に約500mの長方形をしており、現在のターガーンの村を取り囲むようにして残っている。お堀は約7mの幅があるが、東側は埋め立てられてしまったのか、城壁とともに残っていない。お堀を囲むように作られた道路から見ると水面はかなり低い位置にあり、雨季に水が入ったらかなりの深さになるであろう。お堀の周囲には人家などがあまりなく、どこも静かな雰囲気が漂っているが、村人が小さな船に乗って魚を取っているのがたまに見えたりもする。
 これらのお堀と城壁はハリプンチャイ王国の時代に原形が作られ、ラーンナー王朝の時代に拡張工事が行われたと考えられる。

≪参考≫資料館の説明パネルおよび各遺跡の説明書き
≪注≫年号はすべて西暦。
  (*注1)……同朋舎「タイの事典」 P218
  (*注2)……タイ教育文化振興協会「日タイ・タイ日辞典







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