ダムロン物語~あるチェンマイヤクザの人生~(6)


BY:蘭菜太郎

≪注≫本文中に登場する人物などは、すべて仮名です。また、写真と本文とは一切関係ありません。



区切り線

■第26話:ラムプーンの釣り掘(2)


 翌日は、少し早目に出発して10時前にマイトリーレストランに着いた。早速釣りはじめるが、ここの釣り堀はかなり広いので、昨日とは違う池の向こう側から釣ってみようと思い立った。
 小屋の並んでいるサイドは気持ちのよい芝生になっているが、その対岸には日陰になるようなものが何もない、まるで砂漠である。そのままではたまらないので、パラソルを借りてがんばってみることにする。しかし、いかんせんメチャクチャ暑い。ずっとポイントを探っていくと、ちょうど昨日釣っていた小屋の真向かいあたりに、ほかよりも50cmほど深くなっている場所を見つけた。後で聞いたところでは、そこは以前小川が流れ込んでいたらしく、そのためいくぶん深くなっているということであった。そして、このポイントこそ釣り堀一番の穴場であった。反対側には昼寝もできるほどの涼しい小屋があるので、こんな砂漠のようなところで釣りをする人はいないらしく、乾いた地面には人の足跡さえない。水際には雑草も生い茂り、ほとんど荒らされていない。私は“これは穴場かもしれない”と感じ、慎重に底を取って繊細なヘラ鮒用のウキにかえ、ティップが作ってくれた例の鶏糞練り餌のネットリした奴を5号の鯉針にパチンコ玉ほどつけて、そっとポイントに投げ落とす。今日は、引きの強いイソック用に3mの硬めのグラスロッドを用意して来ており、備えは万全である。すると、ゆっくりと立ち上がるはずのヘラウキが突然消えた。“アリャ!”とあわてて合わせる。ところが、まるで地球を釣ってしまったかのように動かない。本当に地球を釣ってしまったのかと心配になるくらいの時間がたって、やっとググッと来た。最初ゆっくりだった引きはいきなり激しくなり、ピュルルッと糸鳴りがしてからがぜん強く引かれた。釣竿が手元から曲がる。あまりの強い引きに耐えられずに、腕が伸びて竿先が水中に引き込まれた時にプッツリと釣糸が切れた。大物がかかってもいいように、いつもよりずっと丈夫な仕掛けにしたのだが、それでも今の大物には通用しなかったようだ。野釣りであったならば残念この上ないところだが、ここは釣り堀なのでドンマイ!!と、すぐに気を取り直し、さらに丈夫な仕掛けに作り直す。これらは無論なるべく静かに態勢を低くして、クソ暑い中でひたすら細かい作業をやるわけだが、指先は汗で滑るし目には汗が入ってえらくしみるし、たいへんである。道糸が12ポンドのハリス10ポンド、食いが立っているので三つ又はやめて1本針とし、7号の丸形鯉針を慎重につける。それと、日本で買った小さいリールの調子を見たかったので、5号のリール竿を出して吸い込みを試すことにする。これに使う5号ほどの小さい吸い込みの仕掛けは、ダムロンの手作りである。ティップが朝作ってくれた例の鶏糞練り餌はネットリと実に鶏糞そのもの並に柔らかいので、これにパン粉を混ぜて硬さと粘りを出してから吸い込み針にセットする。“これでどうだ~!”である。
 練り餌を作り終えた手はひどい匂いがして、ちょっと池で洗った程度では臭くて煙草も吸えない。それでもめげずに吸い込み竿をセットして、竿先に小さな鈴をつける。そして、いよいよ本格的に釣りはじめる。もう、期待で臭さも暑さも喉の渇きも忘れてしまっていた。

ダムロン物語~あるチェンマイヤクザの人生~ ところが、最初と違いしばらくウキは動かない。待つことしばし、ついに“ツン”と来た。そして、うまく合わせられた途端にガッツンとあたりがあった。ヒュルヒュルと糸鳴りをさせて、いきなりすごい勢いで沖に向かって走ると、激しく水面で魚が跳ねた。一瞬見えたそのすごく元気な魚は、腹と胸びれを真っ赤にした巨大なイソックであった。今度は何とか竿を立て直し、魚の動きを制御できた。この様子を対岸で見ていたソムサックが、取り込み用の玉網を持って走って来る。ところが、こちら側は人も行かないような乾いた砂地で、歩くと足首くらいまで埋もれてしまう。さらにところどころには、やたらと丈夫な雑草が荒れ地にこびりつくように生えており、気をつけないとこれに足を取られてしまう。こちらに向かって走って来るソムサックが足を取られて転ぶのを目の端で捕らえたが、右へ左へと走りまくる魚を制御するのに懸命で、ほかのことに気をかける余裕などない。魚は、今度は沖の深みに逃れようと前下に引く。重い!釣竿が手元から曲がり、竿先が水面に入りそうだ。ソムサックが立ち上がり再度走りはじめるが、ほんの数歩でまた足を取られ、地面に手をついている。そして、何で転んでしまうのかと、不思議そうに足元を見ている。どうやら、かなり酔っぱらってもいるようだ。魚と必死に引っ張り合いをしながら、10mほど向こうから今度はかなり慎重にこちらに向かって急ぐソムサックの姿を見て、私はパニックに陥りそうになった。転んで激しく砂地に突っ込んだので砂まみれになり、髪の毛から足元まで全身真っ白であった。それに酔っているので千鳥足だし、また雑草に足を取られないようへっぴり腰になっている。目をむいて大口を開けてやって来るアフリカ原住民のような姿は、おかしいやら情けないやら……。普通なら腹を抱えて大笑いするところだが、こちらは今はそれどころではない。魚は、今や最後の力を振り絞って左に回り込もうとしている。中腰半身になり竿を立てて、何とか魚を手前に持って来るようにがんばる。まだ仕掛けや釣り竿が持ちこたえているのが不思議なくらいである。かなり硬めであるはずの釣竿が、完全にきれいな半円を作っている。腕が痛くなってきた。はじめのショック状態での興奮を乗り切り、アドレナリンの効果が薄れてきたらしく、ここでドッと汗が吹き出て来た。ソムサックがやっとこちらにたどり着き、魚と必死に格闘している私を見ながら、肩でハーハー息をしている。砂まみれで、本当に滑稽な姿である。しかし笑ってる場合ではないので気を取り直し、何とか再度釣り竿を立て直そうとする。魚の動きが鈍ってきたが、竿先はまだ水面近くを上下している。後退しながら、それでも何とか少しづつ引上げていく。魚が視認できるくらいまで引き上げると、向こうからもこちらが見えるので、またまた引きを強くして潜り込んでしまう。それでも何とか少しづつ引上げていく。その魚をソムサックがどうにかして玉網に入れようとしているが、魚は玉網に驚きさらに暴れだす。もう腕は、痛いのを通り越してしびれてきた。「玉網を動かすな!魚を持っていくから入るのを待つんだ!」とあえぐように指示する。やっとのことでその魚を玉網まで持っていき、ソムサックが玉網を上げて完全に魚が水からあげられたのを見た途端に、私は釣り竿を放り出してその場にドスンと座り込んでしまい、なおバンザイをするようにしびれた両腕を上げて、そのままあお向けにひっくり返ってしまった。
 しばらく空を見ながら寝転がっていると、複数の人がやって来る気配がして、女の子の笑い声が聞こえてきた。見ると、賄いや調理などのレストランのスタッフが5人ほど様子を見に来ていて、賄いの女の子がソムサックを見て大笑いしている。昨日話をした料理人のミスターダムがニコニコしながらやって来て、「大物を釣って疲れたのか?」と言う。「疲れたなんてもんじゃない。これを見てみろ。」と、私は硬くこわ張りパンパンになってしまった腕を示すと、私の腕を揉むように触って、「すごいのを釣ったな。リール竿でならもっと大きいのを上げられるが、チョンベット(延べ竿)では最大級だよ。よく竿が持ったな。さすがはメイドインジャパンだ。」とか言っている。そこで私もやっと立ち上がり、みんなが取り囲むように見ている魚の方に行く。釣り上げられた魚は玉網の中でまだ盛んに暴れて、何とか釣り針をはずそうとしてソムサックの手を焼かせていた。見ると、ソムサックの顔は、濡れた手でこすったらしくさらにすごいことになっている。賄いの女の子達がそれを見て腹を抱えて笑っているが、ソムサックは真剣である。私も手伝い、何とか釣り針をはずす。頑丈な7号の丸形鯉針は完全に変形しており、辛うじて持ちこたえたことがわかる。ソムサックが懸命に取り押さえている魚は、口をパクパクさせ赤い胸ビレをヒクヒクさせている。私は、その大きさに改めて驚く。後で計量したところ、全長70㎝、幅25㎝、重量4,500gであった。ノ-ンチャン(草魚)ならばこのくらい大きなのもまれにいるが、イソック(紅魚)では最大級であろう。その巨大なイソックは、大きさもさることながら実に美しかった。

 ソムサックに「その顔じゃあまりにおもしろすぎるから、洗って来いよ。」と笑いながら汗拭きタオルを差し出すと、ソムサックは照れ笑いをしながらも私に魚の入った玉網をしっかりと手渡してから、パタパタ体を叩いて簡単に砂ぼこりをはたき落とし、対岸の手洗いに行くべく、また例のフラフラ、ヨタヨタのへっぴり腰で戻って行く。やはり、何とも滑稽である。女の子達がその後ろ姿を指差し手を叩き、大笑いをしている。こんなにでかいのが釣れるとは思わなかったので、入れ物がない。そこで魚の口からエラにひもを通して縛り、一方を草の根にしばりつける。ここの雑草はやたらと丈夫なので、即席の小さい杭を地面に刺すよりよほどしっかりと止まっている。魚を池に戻すと、かなりの勢いで逃げようとしてもビクともしない。
 釣り竿を調べるが、どこも壊れてはいなかった。しかし、ハリスはもちろん道糸まで、パーマがかかってしまっている。仕掛けは全部作り直さなければならなかった。私はまた黙々と細かい作業に取り組んだ。


区切り線

■第27話:ラムプーンの釣り掘(3)


 そんなことがあって、酔っ払いソムサックとヘンな日本人のコンビは、この釣り堀の有名人になってしまった。その後はあれほどの大物は釣れなかったが、ほかでは味わえない釣りを楽しめる上に食事もうまいので、ほかに予定がなければ毎日のように行った。真夏のことで、たちまち日に焼け、裏表もわからぬほど真っ黒になってしまった。要するに、暑さを忘れるほど楽しかったのである。何回目かに行くと、例のポイントまで人が踏み固めた道のようなものができ、道の部分のジャマな雑草は取り除かれていて、ずいぶんと歩きやすくなっていた。そして、ポイントの近くに石のベンチまでが置いてあった。どうやら、お得意様になったのでサービスをしてくれたらしいのだが、ベンチは一人ではとても持ち上がらないほど重くてじょうぶな代物で、ここまで運んでくるのは並大抵のことではなかったはずだ。
 賄いの女の子に「誰がやったんだ?」と聞くと、ベンチを運んだのはミスターダムで、道はみんなで作ったそうだ。「大変だったろう。」と聞くと、「それほどではなかったが、みんな砂ボコリだらけになった。」と言い、ソムサックを見ながら口を押さえて思い出し笑いをしている。あの時以来、ソムサックはここのいい笑い者になっているらしい。
ダムロン物語~あるチェンマイヤクザの人生~ ここでの昼食は、いつも客の少なくなる午後2時近くにしていた。調理場が一段落すると、ミスターダムが「今日は何を食べるんだ?」と聞きに来る。時々、わたし用の特別な食材を仕入れて来てくれることもあり、ある日「これはうまいぞ!」と、立派なシャモを持って来て見せてくれた。チェンマイではよく見かけるこの足の長い闘鶏用のシャモは、ことのほか味がいい。ほとんどは、実際に闘鶏用として丹精こめて飼われていた鶏で、一度に数羽を育てて、闘鶏の素質を見ながら間引いたシャモである。たいていは飼主が処分し、市場に売り出されることはめったにないし、仮に売っていたとしても普通の鶏の5倍以上の値段がついている。「おおっ、これはうまそうだ!では、半分はガイヤーンにして、もう半分でカレーを作ってもらおうか。ハラミでモツヤキも頼むよ。」と勝手な注文を出すと、ミスターダムは「よし来た!」と、言って調理場に行く。料理ができあがると、賄いの女の子が呼びに来てくれる。待ってました、と釣りを中止して食事をする。特別料理を“うまいうまい”と食べている間に、そのまま置いてきた釣竿に魚がかかると、釣竿ごと引き込まれてしまうこともあった。そうなると、どんなに大騒ぎしても、もうどうしようもない。池の真ん中あたりで浮き沈みしている釣竿を見て、手をこまねいているだけである。こんな時には、ミスターダムに「そのうちに針がはずれれば、グラスロットの釣竿は浮いてくるので、取っておいてくれ。」と、頼んで帰ることもあった。

 この新しく見つけた理想的な釣り堀の話はダムロンには酷であろうと思い、時々行く接見面会の時にも話をしなかったのだが、どうやらティップが話したらしく、“きっと自分が行けるようになる頃までには、全部の魚を私が釣りきってしまうに違いない”と、じたんだを踏んでくやしがった。
 完全に雨期に入り、毎日のように雨が降りはじめる7月の初め……。その日も朝から天気が悪く、1~2時間おきに大粒の雨がドッと降るので、例のポイントで釣るのをあきらめて屋根のある小屋の側で試したが、雨を避けながらの釣りでたいした釣果もなく早めに切り上げての帰り道、ラムプーン市街から旧街道に入ってしばらく行くと、いきなり強い雨が降り出した。まだ夕方の時間帯なのに夜のように暗くなり、雷まで激しくなってきた。トゥクトゥクにはワイパーなどついてないので、雨が降ると前がほとんど見えなくなってしまう。低速で道の端を走ったのが災いしたのか、しばらくすると釘を拾い左の後輪がパンクしてしまった。パンクしたことがわかり、トゥクトゥクを道の端に止めた時には、数m先も見えないほどの豪雨となった。このトゥクトゥクには、スペアタイヤはおろか工具すら積んでいない。“これはいったいどうなることやら……”との心細い思いで、ふたりは声もなく顔を見合わせた。雨のしぶきだけで、たちまち体も濡れてくる……。
 このものすごい夕立は10分ほど続き、突然降り止んだ。雨がやんで周囲が見えるようになると同時に、ふたりとも感動の声をあげて驚いた。何と、トゥクトゥクは自動車修理工場の前に止まっていたのだ。雨で数メートル先も見えなかったのと、雷のせいか一帯が停電していたので、まるで野中で孤立した気分になっていたのだった。それが、夕立が突然終わると同時にすべてが解決してしまったのだ。運がいいのか悪いのかわからないが、とにかく助かった。しかも、停電になって仕事ができなくなったのか、何人もの工員が雨見をしながら一服していたのだが、夕立のため数m先で難儀していた私たちのトゥクトゥクにはまったく気がつかず、突然目の前に現れた私達に驚いている。そのうち、ひとりの工員がパンクでつぶれたタイヤに気づき、「おい、パンクしてるぞ!スペアタイヤを持っているのか?」とか言っている。ソムサックが事情を話している間にトゥクトゥクを降り、タオルを出して雨しぶきですっかり濡れた体を拭う。もう、座席まですっかり濡れてしまい、どこもかしこもグショグショである。ソムサックがトゥクトゥクのエンジンをかけ、潰れたタイヤを痛めないよう、ゆっくりと修理場の前へ持って行く。複数の工員が修理に取りかかり、パンクの修理はものの15分ほどで簡単に終わってしまった。あんまり手際がいいので、“あそこに釘をまいて、客待ちしてたんじゃないのか?”と、疑りたくなるくらいであった。それでも、まあ大事に至らず切り抜けられたので、運がよかったと考え、感謝の礼をしてチェンマイに帰った。

 ところが、それから3か月ほど後に、今度は釣堀に向かう時に道路の反対側でパンクして、やはり同じ修理工場の前でトゥクトゥクがピタリと止まり、“これは、本当に釘をまいての客待ちをしているのだ”と確信を持った。そんな、日本では考えられないようなことが起きるのも、チェンマイのおもしろさのひとつではあるのだが、まったく何と申しましょうか、である。


区切り線

■第28話:ケオ、再び逮捕される


 激しい夕立と(恐らく故意にしかけられた)パンク、というひどい目に遭い、やっとチェンマイに帰りついたその日にケオがまた逮捕された。この時も、以前と同じような状況で捕まっており、やはり前と同じく実刑1年を言い渡された。何よりも恐ろしいダムロンの目がなくなり、またぞろ悪友たちとのお付き合いを始めていたようだ。
 ティップが「今度から、差し入れは2人分ですよ。」と苦笑いをしながら言っている。さらにそのあと「前回は、服役中に麻薬を自由に手に入れることができたから完全な中毒になってしまったけれど、今度はダムロンがいるからそんなことはできないし、ケオはきっととんでもない目に遭うでしょうよ。」と笑いながら続けた。しかし、また警察に捕まってダムロンのところに行った時点で、きっともうボコボコにされてしまっているに違いない。ここにいた時のように飛び出して逃げられないだけに、刑務所のほうがダムロンもケオを更生させやすいかもしれない。ここで周りに面倒をかけながらただダラダラと過ごすより、よほど彼の将来のためになるのではないだろうか。たぶん、ダムロンにしてみれば“飛んで火に入る夏の虫”であろう。自業自得とはいえども、これはケオは絶対大変な目に遭うに違いない。しかし、それはケオを更生させる最後のチャンスかもしれないのだ。そんなことをケオの奥方であるボアライに話して、「運がよいのか悪いのかわからないけれど、ともかくここはダムロンにまかせておくしかない。無論私からも話してはみるが、ダムロンは承知していると思うし、うまく行けばこれで本当にケオは更生できるかもしれないよ。」と、すっかりしょげかえっている彼女を慰める。ケオは決して悪人ではないのだが、今のままでは妻子を養うどころか普通の社会生活すらまともに営めない。ケオが何とかなるものならば、これは願ってもない機会だと思う。本当に、何とかなるものならば……。
ダムロン物語~あるチェンマイヤクザの人生~ 数日後、刑務所に入っているダムロンとケオの兄弟に、2人の奥方と一緒に面会に行った。しかし、この時ケオは具合が悪いとかで接見には出てこなかった。たぶん、ダムロンにさんざん叱られて、殴られた傷がまだ癒えていないのだろうと容易に想像できた。ダムロンは笑いながら、「いや、奴は今日は本当に具合が悪いのだ。」と言っていたが、そんなはずがあるわけがない。

 ケオが3度目の刑務所へ入って2ヶ月ほどたったころ、刑務所にいるダムロンからの頼みで、ひとりの居候がダムロンの家で世話になっていた。彼はケンカで相手に障害を負わせ2年の刑期を終えて出所してきたという、精悍な顔立ちをした好青年であった。名前をパーンといい、彼もダムロンの舎弟になるならば、ダムロンの舎弟はパンとパーンいう名前ということになり、ややっこしい。このパーンは「刑務所で、ダムロンには色々と世話になった。」と言っていた。家族が離散してしまって帰る家がないという彼を、ダムロンは用心棒がわりに居候させるつもりのようだ。ダムロンがそこまで信用するだけあって、傷害罪で刑務所にいたとは思えない、優しく物静かで礼儀正しい青年であった。歳は聞かなかったが、当時多分25歳は越えていなかっただろう。
 ダムロンの家へ遊びに行くと、まだ夕方にもなってないのに、ソムサックはもうすっかりできあがっている。そういえば、奥方のニンの姿が見えない。ティップに聞くと、ニンは2人目を身籠もり、身動きが楽なうちに実家に帰っているらしい。ソムサックは、このところ毎日昼間から安酒を飲んでオダをあげているという。何とも困った奴である。ところが、困ったのは酒癖だけではなかったのだ。そして、それが後に取り返しのつかない悲劇をもたらすことになる。


区切り線

■第29話:悲劇をもたらすもの


 その取り返しのつかない悲劇は、ひとりの少女と少女を食い物にしていた老女がもたらした。

 ダムロンの家の裏には、今は流れていない幅1mほどのドブ川があり、これが隣家の敷地との境界線になっている。向こう側にも当然地主はいるのだろうが、そこは人も入れぬくらい草木が生い茂り、ジャングルのような状態であった。その、普通は人が近づかないような場所に掘っ立て小屋のようなものを作って住み始めた母娘がいた。“母娘”とは言っても、60過ぎの老女と15歳ほどの少女で、明らかに本当の親子ではないとわかる、実に怪しい2人組であった。2人はそこに住み着き、どうも少女が春をひさいでいたらしい。私が見かける時には、いつも老女が少女のそばにつかず離れずいたが、少女を監視するような老女の目つきは、まったく身内を見ているものではなく、その老女が少女を商品として扱い、客を取らせているのであろうことがすぐにでも想像できるような目つきであった。
ダムロン物語~あるチェンマイヤクザの人生~ 少女は、まだ子供といってもいいような体つきで、身長は150cmにも満たなかったであろう。痩せていて色は黒いが、かわいらしい顔立ちをしていた。この少女の保護者というのか持ち主というのか、老女のほうも少女と同じくらい貧弱な体格だが、こちらは醜悪そのものであった。
 当初、私はこの少女の面倒をソムサックが見ているのかと思っていた。むろん不純な下心があって……。それを、その保護者然としている醜悪な老女が何かの余録で黙認しているものだと思い、よく事情もわからないまま「あまり罪なことをするなよ。」と、ソムサックに釘を刺したことがあった。ソムサックは苦笑いをするだけで何も言わなかったが、事実はそうではなかったのである。

 しばらくすると、この怪しい2人組は近所の評判が急に悪くなりだし、3か月ほどで石もて追われ、姿が見えなくなってしまった。

 その後しばらくしてから、ティップが「近所の顔見知りの奥さんが、夜突然泣きながらウチに来て、“あの小娘はどこに行った?”と聞いてくるの。何でそんなことをたずねるのか訳を聞くと、“うちの裏に住みついてる女の子が、このあたりの男を相手に商売してるんだ。しかもこれが何と商売繁盛で、この近所では夫婦ゲンカが大流行している。”と言うのよ。どうも少し前から、酔っ払いがあの家に出入りしているので“おかしいな”とは思っていたのだけれども、まさかそういうこととは気がつかなくて、驚いてしまったわ。それで、裏の堀っ建て小屋を見に行ってみたのだけれど誰もいないし、しかたなく“2人組がいつもいる昼頃にもう一度話しましょう。”と言って、とりあえずその夜は家に帰したのだけれど、翌日ほかの奥さんたちを5~6人引き連れてやって来て、“すぐにここを出て行かないと、警察を呼ぶ!!”、と大騒ぎして、その場で荷物をまとめさせて老婆と少女を追い出して、小屋を壊してしまったの。みんな、えらく殺気立っていてね、すごかったのよ。彼女達には少しかわいそうだったけれど、まあしかたないでしょうね。」と笑いながら、その時の様子を語ってくれた。しかし、事態は実に笑いごとではなかったのだが、89年の暮れには、もう2人組はすでにそこにはいなくなっていた。
 しかし当然といえば当然、その2人組はどこかに場所を変えて同じような商売をしている。という噂をたまに耳にしたが、少なくとも姿を見かけることはもうなかった。喉もと過ぎれば……、という奴で、時とともに噂も消え、みんなこの2人組のことなど忘れてしまった。

 ところが数年後、いやでもこの少女と老女のことを思い出さずにはいられない事態が、ダムロン一家のみならず、この平和なサンパコーイの住宅街を襲うことになるとは、この時誰も想像もしなかったのである。


区切り線

■第30話:堕ちてゆくソムサック


 翌1990年の正月、ダムロンの末妹であるニーパポンが婚約した。ニーパポンはもう23歳になるのだが、まだ少女のようにあどけない。もう彼女も結婚する歳になっていることすら頭になくて、突然の話に私は驚いてしまった。しかも、もうひとつのさらに大きな驚きがあった。養女のウィまでがこの3月に結婚する、というのだ。「エーッ!ウィはまだ子供じゃないか!!」と私がティップに聞くと、「そう言って皆も反対したのだけれど、本人が“どうしても中学を卒業したらすぐに結婚する”と言って聞かないので、しかたなく承諾したのよ。」と言う。それは皆さん反対するだろう。何せ、彼女は今年やっと15歳になったばかりなのだから……。彼女は、私の目にはどう見ても小学校上級生くらいの女の子にしか映らなかった。少し前に、ダムロンの家の裏に住みついていた少女が、この辺の男を手あたり次第にたらし込んで大騒ぎになったと聞いた時も、“あんな子供が!”と驚いたのだが、ウィはあの少女よりさらに子供っぽい。しかしまあ、あの少女のような不幸や悲劇ではなく大変おめでたい結婚話であるので、ふたりきりの所帯を持つのではなく、当座は今住んでいる家で婿殿と暮らすことを条件に承諾したらしい。婿殿も2つ上の17歳とのことで、これはエラく若いカップルの誕生である。ケオの奥方は、少し前から子供を連れて実家に帰っており、ケオの家には今は居候のパーンが寝起きしていたので、しばらくの間末弟のゲアッがケオの家に移り、居候のパーンと寝起きをともにすることになった。ソムサックの奥方のニンは、7ヶ月目になるという少し目立ち始めた自分のお腹を盛んに恥じていた。ダムロンとケオがいなくても、何とかみんな元気を取り戻したようであった。
 しかしその晩、ソムサックがその幸せな家族団欒をぶち壊しにした。この家のふたりの娘の結婚が決まり、そのお祝いもあって、いいわいいわで飲み過ぎて、ソムサックはかなり悪酔いしてしまった。誰彼かまわずに反抗的な態度を取り続け、とうとう遊びに来ていた従兄弟のオッとケンカになってしまった。オッはダムロン一家の母方の従兄弟で、このすぐ近くに所帯を持ち、姉さんと住んでいる。オッの姉さんは、一度見たなら絶対に忘れないほどのすごい肥満体で、まるで象のようである。オッもかなりのデブではあるが、彼の姉さんは特別であり、とても人間とは思えぬほどの迫力である。もっとも、オッは大柄なデブではあるが、とても気の小さい好人物でもある。彼は普段はバイクのサイドに荷車をつけ、それでプロパンガスを配達する仕事をしており、ダムロンの従兄弟とは思えないとても地味で真面目な人である。この彼を、ソムサックはひどく怒らせてしまったのだ。もう完全に恐いもの知らずになってしまったソムサックは、すでに自分の足許もおぼつかないのに、オッに殴りかかかってよけられ、突き飛ばされて尻餅をついた。かと思うと、今度はそこにあったイスを持ち上げて振り回そうとしているが、けっこう重いイスらしく、逆にイスに振り回されている。パーンが止めに入って、ソムサックからイスを取り上げオッをなだめていると、そこへティップがやって来てソムサックをどなりつけた。

 「この大バカ野郎!甲斐性もないくせに、悪酔いしては女房を殴り、人様には迷惑をかけ、たいがいにしろ!この始末は、ダムロンが帰って来たら必ず取ってもらうからね。覚悟をおし!!」と、ティップは日頃の鬱憤を吐き出してしまった。
ダムロン物語~あるチェンマイヤクザの人生~ いかに酔っ払ったソムサックといえども腹にすえかねたらしく、「何を!もう一度言ってみろ!!」と凄んだ。しかし、ティップはまったくひるまない。「こいつは驚いた。お前に私を殴る度胸があるのかい。万が一にでも私に手を上げれば、どういうことになるか、いくら酔っていたってわかるわな。だけど、今晩は試しに一度やってみるかい?」と、むしろ挑発している。この時、私は冷静にことの成りゆきを見ていて、全然心配をしていなかった。ティップはできた苦労人であり、この程度のことではビクともするものではない。はじめに止めに入った若いパーンの方が、逆にオロオロしている。ティップは、うすら笑いさえ浮かべて度胸満点、貫禄十分である。ソムサックが仮に本当に殴りかかっても、たぶん逆にティップに殴られるのがオチだろう。それに、いかに酔っ払ったソムサックでも、それをやってしまったら一線を越え、完全に取り返しのつかない事態になることくらいはわかっているだろう。「何を言いやがる。俺はダムロンなんか怖くはない!」と、虚勢を張る怒声も弱々しくなってきた。結局、ソムサックはしばらくティップをニラみつけていたかと思うと、急に身体の向きを変えて歩いて行き、自分の家に入ってしまった。すぐに、奥方のニンがティップのところにやって来て、ソムサックの非礼を盛んに謝った。ティップが「あなたは妊娠しているのだから、ソムサックが酔っている時には私のところで寝るようにしなさい。」と言っていた。
 ソムサックはあいかわらず酒癖が悪くて、困った奴であった。この日はしかたがないので、帰りは末弟のゲアッにバイクでホテルまで送ってもらったが、当時はそういう事態が頻繁にあった。この頃のソムサックは、まったく酒の入っていない時はほとんどなかった。時には、二日酔いで起きあがることすらできず、ラムプーンの釣り堀に行けないこともあったし、向かい酒でまた酔っ払ってしまい、一日中使いものにならないこともあった。久しぶりにシラフの時、「ソムサック、お前は酒ばかり飲んでいるが、何かおもしろくないことでもあって、そんなにいつでも飲んだくれているのか?何か不満でもあるのか?」と聞くと、「不満はたくさんある。」と言う。「第一に、金がまったくない。次いで、家には冷蔵庫もテレビもない。俺にあるのは暇と借金だけなんだ。」などとバカなことを言っている。「オイ、ソムサックよ。それが稼ぎを全部飲んでしまう奴の言うことか?飲んでしまうから仕事ができずに、稼げないのだろうが。そして、稼ぎがわずかばかりだから酒代でなくなってしまい、生活費を借金することになるのだ。誰がどのように考えても、当然の成りゆきでお前には金がないのだ。ほかの誰のせいでもなく、全部お前のせいだぞ。わかっているのか?今のところ、トゥクトゥクの借り賃はティップのほうで払ってくれているのだから、負担が少なくて楽なはずなのにどうしたことだ?もうすぐ2人目が生まれるんだぞ、少しは考えろよ。」と意見をする。

 しかし、そんな多少の御意見なんぞで酒がやめられるわけもなく、その時はシラフなので頭をかいて悪びれているが、数時間後にはもう飲んでしまって別人に変わる……。ソムサックには、そんなムダな御意見より念仏でも唱えたほうがよいくらいなものであった。ダムロンの仮釈放までのこの後半年あまり、ソムサックはこのまま怠惰な生活を続けたのであった。



本、CD、携帯、趣味用品……可能な限りお金に換えてタイで有効に使おう!



| (5)に戻る | (7)に進む |

HOMEへ レポートを書く TOPへ